こんにちは。空童各務原支部長の花村です。
今回は空童各務原支部は、こんな人が支部長やってるんですよ〜、ということをご紹介させていただきます。
ご参考までに。
では、行きます!
1977年生まれ
1977年2月、岐阜県に誕生しました。
ピチピチの48歳(2025年、現在)。
空手を習い始めたきっかけ
空手の先生をしていた父親が、3歳だった私を道場に見学に連れてってくれて
「お前、帰りにお菓子を買ってやるから空手やるか?」
って聞かれたんで
「やる!」
っていうことで、空手を始めることに。
空手道場に入門

<写真。最前列向かって一番左が私。最後列向かって一番左が堀川豊師範。同列向かって左から三番目が田中京司先生>
和道会各務原支部に入門して、当時は30名ほどの子どもたちがいました。
その頃は、小学生の組手はなくて、形ばかりの稽古だったのと先生がすぐ怒る人だったのもあって、稽古に行くのが段々と苦痛になってきちゃったんです。
嫌々ながら道場に通ってて、何となく空手をしていたという感じでした。
一旦、空手を辞める

<写真。最前列向かって一番左が私>
小学5年生になった頃、空手に行くのが嫌で嫌でたまらなくなったんです。
親に「お願いだから空手やめさせてー!」って頼み込んで、空手を辞めることにしました。
母親と菓子折りを持って堀川師範の自宅に挨拶に行って、「あ〜、スッキリした」って思ったのを今でもよく覚えています(笑)。
中学生になって不良グループに絡まれる
中学生になって友達に誘われてハンドボール部になんとなく入部したんですけど全く興味が湧かず、
「そういえば、よく考えたら自分は球技が苦手だったよな・・・」
と気づいたんです(・・・早く気づけよ)。
部活動中は段々と幽霊みたいに影が薄くなってきて、気付けば完全な帰宅部になっていたんです。
で、そんなある日、いつものごとく忍足で帰宅しようと校門から出ようとしたら、他校から来た不良グループに絡まれて何も抵抗できなくてとっても悔しい思いをしたんです。
空手をやっていたのに形しかできないし、不良たちの前で形を打つわけにもいかないしで、仕返しできない自分に腹が立ってあまりの怒りと悔しさと情けなさに目から血が出てきたっていうのは嘘ですけど、それぐらい悔しい思いをしたんです。
映画「ベスト・キッド」との出会い
しばらく無気力な中学生活を送っていたある日、テレビで「ベスト・キッド」というアメリカの空手映画を見て、とっても感動したんです。
「おぉ〜、スゲェ!!オレも鶴の構えで決勝戦したい!」
って。
映画の内容は、こんな感じ。
『ベスト・キッド』(1984年)は、ラルフ・マッチオ主演の青春空手映画。主人公ダニエルは引っ越し先の学校で不良グループにいじめられるが、アパートの管理人ミヤギに助けられ、空手を学ぶことに。最初は「ワックス掛け」などの単純作業に思えた訓練が、実は空手の基本だった。努力を重ねたダニエルは空手大会に出場し、不良グループのリーダー・ジョニーと対決。最後に「鶴の構え」で勝利を収める。師弟愛と成長を描いた名作。
私は、単純なのでというか純粋?だったので、映画の影響で突然やる気スイッチが入ってしまったんです。
それで、また各務原支部道場に組手の稽古目的で入門しました。
英語教師との出会い
道場には、英語教師のアランという白人男性(確か26歳だった)が空手を稽古しに来ていたんです。
私は彼と出会ったことで、海外に興味を持つようになったんですね。
いつの日かハリウッドで空手を使って映画の仕事がしたい!
って思うようになりました。
‘ハリウッドで認めてもらうにはたくさんのトロフィーが必要なんじゃないか!?‘ って勝手に想像して、組手の練習に打ち込む日々が続きました。
思い込みが激しく、思いついたらすぐ!の性格なので、中学3年生の春から足腰と根性を鍛えようと、早朝に新聞配達を始めたんです。
雨の日も、風の日も、雪の日も、凍った日(これが一番恐怖)も毎朝休むことなく自転車で新聞配達してたんです。
労働の厳しさとお金のありがたさが、中学生ながら身に染みてよくわかりました(笑)。
みんなから ‘すぐに辞めるだろう‘ と思われていた新聞配達は、大学1年生の夏までの四年半続いたんです。
「優勝する」という目標を持つ
当時は、5月の子供の日に行われる少年空手大会が岐阜放送で放映されていたんです。
優勝者はインタビューを受けることができて、私はこれを見て
「オレも絶対優勝してインタビューを受ける!」
と大興奮しました。
何の経験も実力もありませんでしたが、思い込んだらすぐの性格なのでそれに向かって突き進んでいきました。
イメージトレーニングで、インタビューされて話す練習もしていました(イメージトレーニングでは大切なこと)。
後日談ですが、高校2年生の時、この大会で優勝してインタビューを受て岐阜放送で流れたんです。
夢って、叶うもんだなぁ〜と思いました。
そして、努力は裏切らない!って実感したんです。
岐刑支部の所先生との出会い
道場には、ときどき岐刑支部の所正敏先生(和道会岐阜県本部長)が息子さんを連れて来ていたんです。
所先生は私のやる気を買ってくださって、大学に入るまでの六年間、毎週土曜日の夕方に所先生の車に乗せてもらって岐刑支部まで組手練習に連れて行ってもらっていました。
所先生には、本当に感謝しています。
松久功先生との出会い
岐刑支部道場では中学生・高校生たちと一緒に組手練習をしていたんですが、時々、小学生に教えながら組手をすることがあったんです。
その中に今では空手界のレジェンドの松久功先生(当時、小学4年生ぐらい?)が緑帯をつけて練習していたんです。
その時の彼は、強かったっていうか骨が硬くて鉄骨みたいな少年だなという印象で、私の中では「鉄骨少年」という名前を勝手につけていました(笑)。
松久 功(まつひさ こう、1982年2月12日生まれ)は、日本の空手家であり、株式会社APEXの代表を務めています。岐阜県岐阜市出身で、全日本空手道連盟および和道会の公認五段の段位を持ちます。全日本空手道選手権大会で4度の優勝、世界空手道選手権大会に5回出場し、3度の3位入賞など、国内外の大会で優秀な成績を収めました。特に「サソリ蹴り(Scorpion Kick)」の創始者として知られています。2012年に現役を引退後、空手道場「てっぺん塾」を運営し、後進の指導や空手の普及活動に尽力しています。
私から見て彼がすごいなあと思うのは、全国の強豪高校の空手部出身でなくとも自分で大きな目標を持って地道に研究と練習を重ねて強くなっていったこと。
あと、私が大学生で彼が高校生で一緒に国体に行った時に、彼は不当なジャッジをされて負けてしまい相当悔しかったと思ったんですが
「負けは負けなんで、仕方ないです!」
ってと文句を言わずに堪えていた姿を見て、あぁ、この人はきっと大物になるなぁ、と感心していたら、やっぱり大物になりました(笑)。
いつも謙虚で礼儀正しくて、素晴らしい人だなぁって思います。
ちなみに、弟の松久玄 先生(至大塾・松久道場)はたまにうちの道場で組手を教えてくれたり、プライベートでも付き合いが深いです。
岐阜南高校の空手部へ
実は、中学を卒業したらハリウッドに行こうと野望を抱いていたんですけど、親から
「高校だけは出ておけ(泣)」
との願いで、今は校名が変更されてなくなってしまったんですけど当時は岐阜県では空手が一番強い岐阜南高校へ空手のスポーツ推薦で入学させてもらったんです。
戦績も何にもなかったんですけど、やる気・熱意は部活の顧問の先生に伝わって特待生として入れてもらって、当時からラッキー・ボーイだったんです。
今もラッキーは続いていますけど、ボーイではなくなりました。
3年間、大好きな空手を毎日練習できて、たくさんの仲間ができてとても充実した高校生活でした。
愛知大学空手道部へ

<写真/ 神奈川ゆめ国体・空手道競技中量級で赤帯が私>

<写真/ 神奈川ゆめ国体・空手道競技・団体戦/真ん中が私。向かって左は、現在岐阜県空手道連盟監督の若き日の今壮志 先生(日本空手協会北方支部長)>
やっぱり高校を卒業したらハリウッドに行こうって野望を抱いていたんですが、親から
「大学に入れてくれるらしいから、行ったほうがいいんじゃない?」
と勧めてくれたので、勉強もできないのにこれまたスポーツ推薦で愛知大学の経営学部に入学して、空手道部に入部しました。
大学のパンフレットには空手部の主将が
「バイトも部活も両立できる楽しい空手部です!」
と載っていたのでキャンパスライフを思いっきりエンジョイしよう!とワクワクしてたんですけど、それはまったくの嘘で4年間押忍の世界でした(笑)。
JICA協力隊でボリビアへ

<写真/ 内務省のボディ・ガードの人たちと>

<写真/ 日本大使館の警察官たちに空手&護身術の指導>
やっぱり大学を卒業したらハリウッドに行こうと野望を抱いていたんですが、堀川師範から
「お前、空手やりたいならJICA(ジャイカ)行けよ!」
と勧められたので、ジャイカかジャマイカかよくわかっていませんでしたけど、海外ならとりあえずはそちらでキャリアを積もうと思って、試験を受けてJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊に参加したんです。
2年間、南米のボリビアの首都ラ・パスにある国家警察学校で空手教官として警察官、機動隊、ボディーガードたちに空手と護身術を指導しました。
ラ・パスは標高が約3,650m(富士山とほぼ同じ高さ)もあって、世界一高所にある首都で有名なんですけど、酸素がめちゃくちゃ薄いんで2年間高山病で苦しみました(涙)。
開発途上国での指導でしたけど、不便な生活ながらも日本の良さや素晴らしさが身に染みてよくわかりました。
空手の指導でラオスへ

<写真/ 最前列向かって右から四人目が私。私の右に中達也師範、続いて大村藤清師範>
ボリビアから帰国して、JICAの短期派遣でラオス空手道連盟にナショナルチームのコーチとして赴任しました。
ボリビアの警察学校とは違い、謙虚でおとなしい民族性のラオスの人たちに空手を教えるのは大変心地よかったです。
ナショナル・チームのコーチとして赴任したんですけど、代表選手が2人しかいなかったのでナショナル・コンビ?のコーチが正しいかも(笑)。
当時、短期間タイの空手道連盟のコーチとして赴任されていた中達也師範が、大村師範とともにラオスに空手指導に来ていてすごく勉強になりました。
空手の指導でスリランカへ

<写真/ 向かって一番左が私。一番右が、針生泰 先生(針生道場・芝空手道クラブ)>
ラオスから帰国して、JICAの短期派遣で元ナショナル・チームの針生泰先生とスリランカ・ナショナルチームに強化コーチとして赴任しました。
とっても暑い国で、料理はいつも激辛スパイシーで、口直しにジュースを飲んだら滅茶苦茶甘い!っていう毎日でしたけど、猛暑の中で空手をしたり、生徒から無理やりコブラを掴まされたりと思い出に残る滞在生活でした。
ヘビ、大嫌い・・・。

<写真/ 無理矢理、コブラを掴まされているところ>
空手の指導でエルサルバドルへ

<写真/ 最前列向かって4番目が私。私の右隣二人目が古橋先生>

<写真/ エルサルバドル和道会空手道連盟のみんなと>
スリランカから帰国して、JICAの短期派遣で和道会の古橋秀鷹先生(現在、和道会愛知県本部長)とエルサルバドル和道会空手道連盟に強化コーチとして赴任しました。
今までで行った中で、一番身の危険を感じた国で毎日ドキドキしていましたが、空手熱心な練習生たちと共に練習ができてとても楽しい思い出になりました。
空手の指導でフィジーへ

<写真/ フィジー空手道連盟ラウトカ支部のみんなと>

<写真/ スバ市内の空手道場への巡回指導の風景>
エルサルバドルから帰国して、JICAの短期派遣でフィジー空手道連盟に赴任しました。
南国リゾート地とは反対側にある首都スバで道場を巡回して指導したり、小学校の授業で子どもたちに指導もしました。
蒸し暑い国で汗だくになりながらの空手指導でしたけど、のんびりとした雰囲気で楽しく空手ができました。
帰国してから現在まで

<写真/ フランスから来たみなさんと>
帰国してからは、空童各務原支部道場で堀川師範の指導のもと、指導員の一員として子どもたちに指導をしていました。
2023年からは、当道場で支部長を務めさせていただいております。
指導員たちの技術向上と、子どもたちが自信を持ってのびのびと稽古できるように道場を運営していきたいと考えています!